母性社会日本の病理 まとめ

この本は、“ユング心理学”で有名な臨床心理学者の河合隼雄氏の著作で、1976年に刊行されたものを再編集・文庫化し、1997年に第1刷を出版したものである。
本書では「母性社会」「永遠の少年」などの概念をもとに、日本人としての特徴を考え、その他の文化や社会と比較検討することによって、日本人としての生き方を探る試みについて述べたものだ。


著者はまず、人間の心にはたくさんの相対立する原理が作用しており、その中でも“父性”と“母性”の原理の対立はとりわけ重要なものと前提した上で、多くの臨床経験からこの日本は“母性”優位の社会であると主張する。「天にいますわたしの父のみこころを行う者は誰でも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」と、神を“父”だとイエスが語るように、西洋の文化は父性原理(個の倫理)で成り立っており、日本では(著者はいささか検討の余地があると言っているが)神道における重要な神がアマテラスという女神であり、また、仏教なども母性原理(場の倫理)の宗教であると、それらの文化によって日本は成り立っていると説く。

カール・グスタフ・ユングは、人間の無意識の深層に人類共通の“普遍的無意識”が存在すると仮定し、その元型が人間の意識により表象として把握されたものが、神話や伝説として記述されると考えた。ユングの弟子であるエーリッヒ・ノイマンは、人間の発達過程(自立していく過程)にも、その発達の各段階の元型となるものが神話のモチーフに表現されていると考え、それは個人の自我の発達過程の元型的なイメージを提供し、「人類の意識の発展史」なるものが神話を体系的に論ずることによって把握可能だとし、その画期的な著書『意識の起源史』を発表する。
ノイマンは多くの天地創造神話の初めにカオス(混沌)が記述されるように、意識と無意識は当初において分離されず混沌とした状態にあり、その状態を象徴的に表したものが“ウロボロス”であると述べる。ウロボロスは自分の尾を呑み込んで円状になっている蛇で表され、それが新生児の意識も無意識も分離しない原初的な未分化な状態を示す。
そのウロボロス的な全体性の中に“自我”が芽生える時、世界は“グレートマザー(地母神)”の姿で現われる。その像は全世界の神話の中で重要な位置を占めており、それはすべてを生みだし弱い自我を養い育てる面と、逆に現われはじめた自我を呑み込み、もとの混沌へ引きずり込む恐ろしい面をも持ち合わせている。 このようなグレートマザーの中で育っていった自我は、次の段階で父と母、天と地の分離、光と闇などの分離を体験し、意識は無意識から分離され、ものごとを区別することを学ぶ。しかしこのことは、無意識的な全体性の破壊として損失と感じられる面もあり、それは罪の意識へとつながるが、その源泉は超個人的なものとノイマンは述べる。 その次の発達段階においては画期的な変化が生まれ、それが全世界に存在する英雄神話により示される。英雄ペルセウスの物語に典型的に示されるようだが、根本的な骨組として、英雄の誕生、怪物退治、宝物(女性)の獲得という筋書きで構成される。これは無意識から分離された意識が自立性を獲得し、人格化されることの顕現であると考えられる。ユングは先に述べた怪物退治を、同じ精神科医であるフロイトが“エディプスコンプレックス”という個人的な父と子の対立という肉親関係に還元して解釈したのに反対し、怪物を人類に普遍的な母なるもの父なるものの元型的象徴として理解する。怪物退治としての母殺しは、自我を呑み込もうとするグレートマザーとの戦いであり、無意識の力に抗い自我が自立性を獲得するための戦いであると解釈する。また父殺しは父なるものとして表される文化的社会的規範との戦いを示し、自我が真の自立を勝ち取るには無意識からだけでなく、文化的な一般概念や規範からも自由になるべきで、そんな危機的な戦いを経験して自立が達成し得ると考えたのだ。
その怪物退治の後、英雄はしばしば怪物に捕らわれの身になっていた女性を解放し、結婚する。父殺し母殺しの過程を経て自らを世界より切り離すことで自立性を獲得した自我が、一人の女性を仲介として世界と新しい関係を結ぶのだ。ここに至り本当の意味での“関係”ということが生じる。ウロボロス的未分化な一体性とは明らかに区別しなければならない。
・・・だがもし、ここでいう“母殺し”を遂行できない人間はどうなるか。それは、いつまでも成人になれない人間、「永遠の少年(プエル・エテルヌス)」が現れる。ある一時期はめざましい活躍、上昇をみせるが、成人することなく、グレートマザーへの子宮回帰の念を抱き、あるとき突然の落下が始まり、母なる大地へ吸い込まれ死を迎える。その後グレートマザーの子宮の中で再生し、同じことを繰り返す。「永遠の少年」の元型はすべての人の心の無意識層に存在し、この元型と同一化するとき、文字通りの「永遠の少年」となる。彼らの主題は“上昇”であるけれど、水平方向に広がる時空との現実的つながりの弱さを特徴とする。そしてここで描いた行動パターンは、日本社会全体の動きに似てはいないだろうかと著者は言うのだ。 「永遠の少年」はさておき、ノイマンはこの自我確立の過程を、西洋人のなした「特異なアチーブメント」と呼ぶ。このように「西洋人に特異な」自我確立の傾向が日本人の心の中に生じるとどうなるのだろう。それは残念ながら、その人にとって周囲の状況と何らかの摩擦を起こさざるを得ないものになるであろうと著者は述べる。 日本には欧米諸国と比較し“対人恐怖症”と呼ばれる神経症が特に多いという。赤面恐怖や視線恐怖などを症状とする対人恐怖症者は、「強気と弱気の二つ相反する性格傾向」をもっているとされ、人から嫌われないよう好かれたい感情を内蔵し、それでいて他人に優越したい、優越しなければならないという矛盾葛藤が心性の根本にあるというのだ。 西洋人のように確立された個々の自我が関係を結ぶようなあり方ではなく、「全体としての場」が先に形成されてその“場の平衡状態”をいかに保つかが重要な日本人の集まりの中にあって、対人恐怖症者の人々は場の倫理に基づく対人関係をもつことができない。馬が怖い、鼠が怖いとかと同様、彼らは“人”が怖いのではなく“対人関係”に問題があるのだ。彼らの無意識内で個を確立する傾向が求められると、それは「場を破るもの」として作用し始める。西洋的な自我の確立は、日本的な場の破壊へとつながるから、その傾向が無意識内に存在することを意識し始めると、自分自身を一種の加害者とみなし「加害恐怖・加害妄想」を抱き、ますます対人恐怖の傾向を強めることになる。著者が一応「場の倫理」と呼ぶ日本の傾向に対し、「個の倫理」というべき傾向を無意識内に強く感じるため、彼らは不適応を起こしている。だがそれは、日本という文化の一般的傾向を“補償”する意味をも持ち合わせているのだ。 日本人の心の構造は、意識と無意識の境界が定かではなく、意識の構造も、むしろ無意識内に存在する自己を中心として形成され、それ自身、中心をもつかどうかも疑わしいと考える。よって日本人は、その無意識内にある中心をしばしば外界に投影し、それに対し自分をまったく卑小と感じたり、絶対服従することになったりする。自己は天皇や君主・家長に投影され、自分の命を捨てることさえ当然と思うようになり、自己の偉大さに比べ単純に自我否定を行うが、その傾向がただちに命の否定へと拡大される危険が高いのである。その中にあっては、西洋流の個人主義は利己主義のレッテルを貼られてしまう。 だからといって著者は、日本人と西洋人の自我のあり方について簡単に優劣を断定することはできないといい、父性原理を確立しつつ母性とのかかわりを失わずに、自分の生き方を見いだしていく努力を続けるより仕方がないという。重たいが、示唆に富む内容の本である。詳しく知りたい方はぜひ一読をして頂きたいと思う。

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